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古川日出男の小説「平家物語 犬王の巻」を原作にした湯浅政明監督のアニメーション映画。
室町時代を舞台に、今は失われた彼らの物語を犬王の舞と友有の演奏によって描いていく。
実在の能楽師・犬王に題材にしているものの、アニメーションという表現によって“ただの時代劇”にはしないところが湯浅監督のセンス。
本作で言えば「犬王の近江猿楽」が現代に残っていないことを逆手に取って彼らの演舞を好きなように表現しているわけだけれど、そもそも脚本家は彼らの演舞は能になるものだと思って脚本を書いたとのことで、監督はそこに“表現としての自由”を見出してロックな舞台演出にしてしまうのだから恐れ入る。
たとえそれが室町時代の話であろうとも、「当時の聴衆を引き付けたもの」「自分たちの物語、情熱を表現するもの」「正道に対抗するもの」としての肌感覚は今も昔も変わらないだろうという直感でもあったのだろうか。
もはや理屈でモノを考えている人なら発想もしないような組み合わせにも思えるけれど、それをやってのけるのだからやはりこの監督は目が離せない。
もともと“絵を動かすこと”に対する執着が溢れ出るような映像を撮り続ける湯浅監督だが、本作でもそのこだわりは変わっていない。
本作でも動かせるキャラはとにかく動かすといった感じでもあるし、さらに言えば異形の犬王の姿などはアニメーションだからこそできる奇怪さと躍動感だった。
演舞のシーンにしても、その舞台演出の奇抜さと規模感が成立してしまう(その世界の中ではウソにならない)のはアニメだからできる技だよなあとも思う。
まあ正当な時代劇を求めて観に行けば面食らってしまうだろうし、音楽にしてもロック調が肌に合わない人もいるかもしれない。
でもその表現の自由さこそが“犬王と友有”という人物の表現系なのだとすれば、肌に合わないことはすなわち「正本」こそが正道なのだとすることと同じ様なものであるし、それはそれで正しい感覚でもあるのだろうとも思う。
この話はそういう「あるべき流れ」の傍らで語り継ぐことを許されなかった、友有の怨念の物語なのだ。
物語は現代の京都の橋で始まり、現代の京都の橋で終わる。
観客が観せられたものは友有の怨念が弾き語った「犬王」という平曲だったというわけだ。
かくして語りが終わった時、彼の眼前には犬王がかつての異形だったころの姿で現れる。
体制に抗い処刑された彼の魂を、犬王が死してからも600年探し続けてついに見つけ出した瞬間だ。
犬王にとって人の姿か異形かは問題ではなく、彼にとっては友有と…いや友魚と出会ったあの瞬間の姿こそ、二人の友情が芽生えた最も大切な瞬間であり本当の姿なのだということだろう。
考えてみれば犬王は「どろろ」の百鬼丸の様な過酷な身の上だけれど、自身の境遇を悲観していなかったしむしろ生き生きとしていたように思う。
一方の友魚は権力の都合に巻き込まれ、父が死に、母は錯乱し、自身は盲目になり、そしてロックに生きた廉で処刑されて怨霊になってしまうという強烈な人生…。
その彼がラストで犬王救われて天に昇っていくラストの姿を見た時、何か胸が熱くなってしまった。
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