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戌井昭人の同名小説の映画化作品。
どんな役でもこなすので監督には好まれているが、主役にはなれない脇役俳優・亀岡拓次の日々を描いた業界ドラマ。
主役の亀岡拓次という人物は万年脇役俳優だが、脇役中の脇役。
演じる安田顕のために当て書きでもしたんじゃないかと思うくらいにハマったキャラクターだが、この映画がこの人物のドラマを描きたいのか、それとも俳優の業を描きたいのか、それとも業界あるあるを描きたいのか、よく分からなかった。
うーん、どれもか。
横浜聡子監督の作品としては初めて観たが、シュールな作家性は聞き及んでいたものの…確かにシュール。
特にスペイン人監督のオーディションのシーンは、背景に影で兵隊やなんやの動きを描いたその前で安田顕に演技をさせるという、舞台劇的な表現で亀岡の演技そのものを浮き彫りにする。
考えてみれば大御所女優(三田佳子)の舞台に参加しているシーンも背景のない中での演技というわけで、“俳優がいったい何を生み出すか”という空気を見せようとしているのかと思ったり。
しかしこれでは実験映画の類だよなあ。
所々でクスリとする場面もあるけれど、正直、面白いかと聞かれても面白いとは…言わないかな。
一方で様々な監督に重宝されているというエピソードは、吐いたり酔ったり目玉が飛び出したりと、観てわかりやすい彼が生み出す一瞬の奇跡を羅列する。
大物監督風の山崎努が「偶然という名の必然!」と言うが、それを持っている男ということなのだろう。
そこは分かりやすい。
そうこの映画は“亀岡拓次”という人物自体の話は分かりやすいのだ。
亀岡が恋をする居酒屋の若女将のくだりなんて、すごくローギアなテンポが心地いいくらいに良い空気を出している。
まあこれは若女将を演じる麻生久美子がとてもいい女に見えるってのもあるが、(ベタな)オチも含めて分かりやすくていい。
なのにもう一つのテーマである“俳優とは何か”となると途端に抽象的で、実験的で、分かりにくい。
ここのギャップへの違和感がどうしても最後まで拭えなかった。
山形で俳優仲間と語っていた韓国映画の「話が面白かったが、最後に何故か居なくなった登場人物は気にならなかった」という話は、俳優そのものの価値についての話でもあると思う。
「気にならない」と言うのであれば居ても居なくても同じと同義じゃないか。
役者がキャラについてそんなこと言うの?なんて思ったが…。
だが役者とは、スペイン人監督のオーディションの様に何もないところに空気を生み出せる者なのだろう。
砂漠に残る足跡は、何もないところにでも確かに残っていく彼の存在証明の比喩なんだろうか。
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