シネつう!
JAPAN STYLE !!

シン・ゴジラ
2016年制作

満足度:

「ゴジラ」シリーズの29作目。
現代日本に突如現れた未確認巨大生物。
その対応に追われる官邸だったが、ついに上陸したその生物は信じがたい変化を遂げていく。

日本人にとっては、ある意味で完成されたゴジラのイメージがそれぞれの中にあると思うが、大体は初代ゴジラ、昭和ゴジラ、(84年版を含む)平成ゴジラ、ミレニアムゴジラに分かれると思う。
(ここではハリウッド版を考慮しない。)
その中で監督の庵野秀明が描いたゴジラは初代の持つ“人が抗しえない巨大な災害”としてのイメージだったが、これは怪獣の持っていた本来性というか、神性というか、「怪獣にはこうあってほしい」という一人のファンとしての想いが込められているように感じた。
特撮オタクとしての庵野監督の全力がつぎ込まれていたと思うし、一方では、正直言って彼がここまで他人を信じた脚本を書いたことにも驚いたけれど、“日本人という群体”とゴジラという巨大な一個体の闘いをここまで見事に活写するとは…脱帽です。
12年ぶりの新作ゴジラ…、「エヴァンゲリオン」とはまた違った意味でファンからのプレッシャーも大きかったであろうその中で、ここまでやりきったのは素直に凄い。

怪獣映画ではあるけれど、全体的にはかつてあった日本映画のストイックなドラマ性を再現した作品だとも思う。
岡本喜八監督に対するオマージュは公開前からも言及されていたけれど、確かに観て真っ先に思い浮かぶのは「日本のいちばん長い日」だった。
1973年版の「日本沈没」も入っているかな。
日本の運命を左右する危機に直面した為政者たちの苦悩と決断の群像劇。
描かれるのはマクロの決断のみ、守るべきは“日本”という総体であって、個人ではない。
だからこそ安易な感動の押しつけも、お涙ちょうだいも差し挟まる隙がないのがとても素晴らしい。

確かにゴジラの足元では多くが死んでいるだろうし、登場人物の家族の物語だってあるだろう。
でもそれを匂わせこそすれ、殆ど描かない。
彼らが真剣に守ろうとしているものが個人ではなく、「日本」そのものだという部分にドラマの根幹があるからだ。
政治家や官僚を持ち上げすぎているという向きもあるかもしれないが、危機によって個人が成長し活躍する映画があるのであれば、危機によって為政者たちが成長し活躍するドラマがあったっていいじゃないか。

この映画のコピーに「現実対虚構」があるが、まさに一言で表すならそれだろう。
現実の日本に怪獣が現れたらどうなる。
そのシミュレーションを真剣に描いてみた前半は特に面白い。
官邸内での会議、会議、会議。
専門用語が飛び交う会議にも一切解説が無い潔さがいいな。
この場合、内容を理解するよりも先に雰囲気を掴む方が優先された演出か。
安易に「つまりこういうことか?」と解説じみた台詞をいう人物も出てこない潔さw

殆どが会議で構成された映画だけど、それでも面白く感じるのはやはりカットのテンポに勢いがあるからだと思う。
とにかく徹頭徹尾、台詞のテンポでカットを切りまくって場面を繋ぐ繋ぐ。
そこのリズムがただの会話…しかも内容的には聞きなれない単語が飛び交う様なものなのに、そのリズムに巻き取られてグイグイ引っ張りこまれる。
「とにかくモメている」、「何か糸口がつかめたらしい」、「これでいけるってことなんだな!」と。

さて、最初にゴジラが放射熱線を吐くシーンはこの映画の一つの山場だけど、実は怪獣の描写としてはここがピークだとも思っている。
ドラマ的には熱核攻撃についての話があるので後半も上って行くのだけど、怪獣映画としての描き方…終盤のヤシオリ作戦は中盤の破壊的なインパクトに比べるとちょっと地味かな。
(無人在来線爆弾はちょっと笑ったがw)
でもポンプ車でゴジラの口に凝固剤を流し込む描写って…、やはり福島第一原子力発電所への放水のイメージなんだと思うんだよね。
画的には地味かもしれないけど、一朝事あらば身を挺して最前線で事の解決のために飛び込むという人たちがいる。
そういう人達への監督の想いがそこに込められているのかなあと感じた次第。

切っても切れない「ゴジラと核」というイメージとテーマ。
怪獣映画を描くだけなら最高に熱い前半の自衛隊vsゴジラの場面だけでも十分だったろうが、庵野監督はその先も臆することなく核のテーマを取り込んで、ただの怪獣映画ではない「これこそが『ゴジラ』映画だ」とイメージするものを作り上げたと思う。

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