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公開当時は宮崎監督の引退説が話題にもなっていた様な記憶があるけど、“文明と自然との対立”というテーマは「風の谷のナウシカ」から数えて6本目のオリジナル長編作品として、監督のある種の集大成といった趣があるよね。
「神殺し」という題材は「人間が生きるためには自然を破壊してしまう」のだという一種の業の表現としては端的でわかりやすい。
でも、その役割を背負ったエボシ御前というキャラクター自体が様々な勢力の中で生き残るために利用し利用されている存在であることが、この物語の深さを感じさせる部分。
エボシ御前が唐笠連から石火矢衆を借りられたのは“神殺し”を約束していたからだろうし、それによって神の住む森を切り取ったからこそタタラ場という売られた女たちや業病の者の居場所を作り上げられたのだろう。
そうしてエボシ御前が弱者に対しては徳者である一方で、鉄や武器を生産して戦乱を生み出している者という面もあることが、人の活動は正義か悪かで割り切れないというものを感じさせる。
主人公のアシタカはこのタタラ場とシシ神の森をめぐる物語としては部外者なわけだけど、彼がどちらかに肩入れするんじゃなくてどちらにも肩入れするという動きをしていくうちに、観ているこっちも部外者であることをどんどん忘れていってしまうのがよく出来ている。
本当は複数の勢力が様々な利害で対立している世界観ではあるし、観客も森の神々と人間との対立を両方からバランスよく理解する必要があるのだけど、登場人物たちの自然な会話によってそういった状況を察することができるという構成が本当に巧いと思った。
2時間強という時間の中でも間延びせず、これだけのテーマと世界観を凝縮して描き切るという宮崎駿監督の構成力には本当に脱帽です。
この映画は公開当時も劇場で観たけど、子供(…といっても高校生だけど)だった自分にとっては冒頭のタタリ神のシーンから衝撃を受けたのをよく覚えている。
あの黒いウネウネのビジュアルには大層驚いたものだったけど、あれが作画だっていうのだから本当にビビる。
大人になった今考えるとより一層ビビるw
今ならCGでやってしまうんだろうか。
でもあれは手描きだからこその生々しさなんだろうし、それによってとんでもないインパクトを生んだのは事実だよな。
アニメーターの職人芸だよ、ほんと。
実際には1997年ごろはアニメにおけるCG演出が出てきた過渡期で、一時はタタリ神もCG描写を検討したのだとか。
でも手描きで正解だったよね。
本作ではCGはモーフィングや疾走シーンの地面の移動などで使用されたりしてるけど、そのへんは一発でCGだとわかっちゃう質感かなとは思う。
一方でデイダラボッチの半透明の表現などは今見てもよく出来ている。
よく考えると時代がかった台詞もちょくちょくあって、子供時分には受け取り切れていなかった部分もあったかもしれない。
特に勢力間の相関関係は大人になってからちゃんと理解したような気はするなあ。
それでも当時は気になってなかったことを考えると、細かい話以前にきっと感情で引き込まれていたのだろう。
そういう力がこの作品にはあるよなと、大人になった今改めて思うのです。
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