シネつう!
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侍タイムスリッパー
2024年制作

満足度:

幕末の京都。
会津藩士の高坂新左衛門は維新志士の長州藩士を討たんとするが、その最中に落雷に遭い、気が付くと140年後の京都にいたのであった。

そんな具合に、いわゆる過去人物が現代に来て右往左往する系のコメディ的シチュエーションで始まります。
そのタイムスリップ自体は作劇の都合なので、その現象に理屈がないのは「テルマエ・ロマエ」とか「帰ってきたヒトラー」と同様ですね。
とにかく(理由はともかく)侍がタイムスリップしてしまったのだというのを受け入れないと話が始まりません。
なんだかんだで状況を受け入れたり、撮影所の斬られ役として認められていく話のテンポも良かった様に思います。

実際問題としてそれだけの要素なら平凡な設定なのだけど、本作は上映館数1館から始まり、好評な口コミの結果全国100館上映まで拡大された作品。
その評判を事前に耳にしていた俺も「タイムスリップだけではない何か」の魅力があるのだろう、という期待を持って本作を観始めたのです。
結果的に、この「映画」は満足度の高いものでした。

インディーズ映画なので、作品の質的には大予算の商業映画に及ばないところがあるのは事実かな。
芝居にしても演出にしても、「やっぱり低予算映画だよね」と思う部分はありました。
が、それを補って余りある構造上の魅力がこの作品にはあるんだよね。
それは間違いない。

その魅力って何だったんだろう?と観終わってから考えたとき、「ああこれって『蒲田行進曲』だったんだ」と気づいた瞬間にすべて合点がいった気がしました。
正確には「蒲田行進曲」の様に本作の話が“映画の中の映画”とは謳ってないけれど、構造はまさしくそれなんじゃないかと思います。
映画という“創造物(フィクション)”で、観ている観客にそれを“本物(リアル)だ”と思わせるマジック。
そういう“映画”の魅力を引き出していたように思うのです。

最大の仕掛けは劇中劇である時代劇のクライマックスの剣戟撮影で、「真剣を使う」という話になったくだりですよね。
本来、演出のために必ずしも本物を使う必要はないはずだし、「命をかけて映画を撮る」というフレーズにしても「本物の命を懸ける」ということと同義であってはならないとは思います。
それでも劇中の登場人物が意思を固めて「真剣」を選び、過去の決闘の続きを始めた時、観ているこちら側には「侍の矜持がそうさせたのだとしても、撮影で真剣勝負なんてほんとにこれでいいのか?」と気を揉んでいた瞬間がそこにあったんですよね。
これこそがこの映画の最大の仕掛けであり、作品構造の勝利だったんじゃないかと思う次第。

映画というのは創作物(フィクション)です。
でも登場人物が「それは真剣だ」と言えば、たとえ本当は竹光だったとしても真剣に見えるのです。
クライマックスの決闘場面が自分の目には真剣勝負に見えてしまった時点で、この映画の勝ちだったのです。
殺陣師へのリスペクトがここにすべて詰まっていたようにも思います。

振り返ってみると、アバンタイトルでやけにセリフの感じがアフレコくさかったり、いちいちSEがわざとらしかったのにも意味があったのかもしれない。
最初はインディーズ映画だから?とも思ったけど、最後まで観ると違う気がするなあ。
おそらく「この話は映画ですよ」、「時代劇への愛なんですよ」というポーズだったんだろうと思う。


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