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谷川流原作の、同名ライトノベルのアニメ化作品。
主人公・キョンは破天荒な女子高生・涼宮ハルヒに振り回される日々を過ごしていたが、ある日、学校にいるはずのハルヒが姿を見せず、代わりにいるはずのない人物が姿を見せた…。
非日常性を日常の地平で見せてしまうという至極日本的SFを、“無意識の神(?)”“宇宙人”“未来人”“超能力者”“一般人”という役割に当てはめられたキャラクター達が騒動を起こし、解決する姿を描く。
そんなところが「涼宮ハルヒ」シリーズの世界観だけども、そこに“涼宮ハルヒ”という存在が無くなった世界がどんなであるか。
繰り返される騒動が煩わしいとすら思っていたキョンは、ハルヒの不在で何を感じたか。
非日常性の傍観者として、キョンと共に「〜憂鬱」「〜溜息」「〜退屈」(TVアニメシリーズ)とハルヒに振り回された読者は、その非日常性が無くなった日常の異常さに焦るキョンへ感情移入してしまうわけだ。
まあそういった話はSF的にはよくある話で、“自分のいない世界”を観て自分という存在の意味を知る「素晴らしき哉、人生!」的な構造としても面白い話になりうる。
だけどここでは他者の不在によっての再認識となるわけで、そこに「ハルヒ」の世界観が上手くいかされているのが面白い。
長門が長門でないということ、それがその世界をもう片方で操作しうる存在の自己否定であり、世界が再構築された事実を唯一認識するキョン=読者に選択を迫る。
「どちらの世界が良いのか」
2時間40分もある、アニメ映画としては異例的な長編作品ながら、その間中、話に引き込まれっぱなしでした。
異例的な長尺の作品であるということは、取りも直さず制作側のこの映画に描ける気合いとも映るが、それは画面の端々からも感じ取れる。
元々キャラクター性に人気のある作品だけに、個々のキャラに対する演技の付け方は言うに及ばず、モブシーンのキャラクターまで全部動かして演技を付けている気合いの入れようには参った。
「イノセンス」で押井守がやった時も驚いたけど、やはり劇場版ともなると画面全体に対する力の入れ方が違うよな…。
テーマも演出も個人的には非常に満足しているし、劇場版というスケールにも負けていない完成度で良い。
しかし、この話はこの映画だけで完結しているものではなく、過去シリーズのストーリーが入り乱れて組み込まれており、やはりずっと話を追ってきたファン以外には敷居の高い作品になっているのも事実。
ただ、そういった新規ファンのために話を変えるべきとも思えず、この映画はこれで良いのだ、と思ってます。
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