シネつう!
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三度目の殺人
2017年制作

満足度:

強盗殺人の罪に問われている容疑者・三隅(役所広司)の弁護を行うことになった主人公・重盛(福山雅治)。
前科のある三隅の死刑が確実な中で重盛は無期懲役への減刑を目標に調査を始めるが、肝心の三隅の証言が二転三転する。

この作品を観てまず思ったのは「羅生門」。
真相は“藪の中”だ。
が、観る者に「きっとこうだろう」と思わせる要素が多々練りこまれている。
最後の接見で重盛が語った三隅の無罪主張の理由はきっとそうだろうし、そう思いたいと観客に思わせる力もある。
しかし最後までハッキリとそれを語らない三隅という人物は、劇中で言及されるように「空っぽの器」という形容が見事に当てはまるキャラクターだった。

「生まれつきの強盗殺人犯」、「少女を守るために彼女の父親を殺した」、「見て見ぬふりをする彼女の母親を裁くために共謀を証言した」、「少女の事実を隠すために自らを死刑にした」。
これらは重盛の主観でしかないし、同じく物語に誘導されて植え付けられる観客の印象でもあるが、等しく「そうであってほしい」という観る側に都合のいい願望でもある。
「空っぽの器」とはそういう“都合のいい解釈”の入れ物だという主張。

主題の「三度目の殺人」とは一義的には二度の殺人を行ってきた三隅が三度目として自分を殺す(死刑にする)ことを表現していると思うが、その三度目に加担した周囲の人物、ひいてはその結末に納得した観る側に対する「共謀」という皮肉がこもっていると思う。
人殺しを裁く話なのに、その裏返しとして「少女に起きた事実を隠すためであればウソの証言で死刑になる」という結末に納得してしまうこの気持ちはどうしたものか。
三隅は少女の父親を「殴り殺す」という形で裁いた。
少女もその場にいたかもしれない、もしかすると少女がレイプした父親を殺しすらしたかもしれない。
仮にこれが真実だとしてそれは私刑であって認められないのに、では少女が社会的に守られるのであれば別の真実があるかもしれないという事を知りつつ三隅が死刑なることを良しとするのか。
…本当に?という皮肉だ。

三隅と重盛は合わせ鏡に映った様なキャラクターである。
社会的な立場は違えど、「生まれてこなければいい人間はいる」と「前に死刑にしておけばこの犯罪はなかった」の様に語る主張にも近いものがある。
究極的には序盤の三隅が「同じことをしているでしょう?」と問いに対して、重盛が「それは死刑の事を言っていますか」と返すシーンに集約されているか。
本来、私刑の殺人と司法の死刑は全く違うはずだ。
が、結局最後まで観たとき確かに三隅が看破したその境界の曖昧さに戸惑うことになった。

終盤に三隅が突然無罪主張をした後、裁判官が目配せして検察と弁護士も審理続行で合意するというシーンがある。
この段になって司法はすでに真実に重要性ではなく日程や何かの都合が優先されているし、それによって裁判官や検察は彼らなりの都合から死刑という結論ありきで納得し、重盛も真実と三隅の真意との天秤から死刑を受け入れてしまった。
これはこれで司法という社会制度が三隅の「三度目の殺人」に乗っかったという事だろう。
だからこそ、これは殺人の共謀なのだと感じてしまう。
そういう皮肉にうならされた。

真実が曖昧だからこそ三隅の裁きと重盛ら司法の裁きの曖昧さが際立つ。
曖昧さが際立つというのも変な日本語だが、「空っぽの器」を通して人間の心の都合のいい思い込みを顧みさせてくれるよく出来たドラマだと思った。

全体的に抑制された地味な作品ではあるが、役所広司と福山雅治はその物語を見事に支える好演を見せていると思う。


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