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前作の事件から10年後。
再び人間界に落とされた6冊のデスノートを巡り、デスノート捜査官と所有者たちとの攻防を描く。
「『デスノート』って、そのルールを駆使した頭脳戦が魅力なんだよな」という、原作や映画のオリジナルから抱く期待みたいなものがあると思うんだけどね。
そういう意味でこの映画がその期待の受け皿になりえたのかというと、正直その器は小さすぎたし期待はこぼれてしまったと思う。
作中では"死神の目"・"ノートの優先効力"・"所有権を使った記憶喪失"など、原作でも使われた仕掛けをこれでもかと放り込んできているのだけど、逆に「どれもこれも設定の再利用じゃないか」と思わなくもなく。
一応ルールの上での整合性は考えられているし、その面ではあまり否定感はないのだけど、だからと言って面白いと思えなかったのは駆け引きやテンポに今一つ緊張感を感じなかったからかな。
何となく間延びしている…というか。
登場人物の芝居がかった演技も、藤原竜也や松山ケンイチのそれとは違って今作の登場人物については個人的にどうも乗り切れなかった。
「6冊ルール」は元から有った設定だけれど、だからと言ってその設定が作中で効果的に使われているのかというとちょっと微妙。
「人間界に7冊目は存在できないから、6冊全てを押さえれば今後キラ事件は起こりえなくなる」というのが話の主眼になりはするけれど、映画的には大半の場面で2勢力が押さえているので、「6冊」であることにほとんど意味が無くなってしまってるんじゃない?
もう一勢力ぐらいが不確定要素として割り込んでくれたら話も面白くなりそうなものなのに、そうしないのは映画という尺の問題なのだろうか。
だとしたらなんだかもったいない話だよなあ。
そのくせ死神アーマの自死なんて、話の流れで必要だったのか疑問だけど割り込んでくる。
オープニングのロシアのシークエンスは良かったんだよ。
生き死にの事についての葛藤も感じられるようなテーマだったし。
雰囲気も若干ホラー調でよかったのに。
一方の本編に入るとその葛藤が薄くなって、生死はほぼ武器の様にしか描かれないから乗り切れないのかも。
これでは前作を生き残ったのにこんなことで死んでしまった松田が浮かばれないわ。
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