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JRPGを代表するTVゲーム、「ドラゴンクエスト」シリーズの「V」を原作にしたCGアニメーション映画。
「ドラゴンクエストV」発売当時はギリギリ小学生。
そもそもFCもSFCも買ってもらえなかった我が家では「DQ」を遊ぶすべはなかったのだけど、周囲の友人が皆「ビアンカか? フローラか?」と言っていたのはよく覚えている。
そんな思い出しかない状態で本作を観に行ったわけだけれど、「DQ」を知ってる知らないとかそんな次元ではなく、これはなかなか挑戦的な映画になっていた。
悪い意味で。
全体的にはストーリーが駆け足な感じはする。
ただ、真っ当にRPGでのプレイ体験を追体験させようと思ったら2時間で収まるわけもなく、そういう意味では映画的な要約や変更は許容されるだろう。
ヘンリーとの友情や、幼馴染であるというビアンカとの子供時代、パパスに対する尊敬のための描写の積み重ねは物足りないが、それも仕方が無いだろう。
それでもこの物語の中で生きて、闘って、家族を持つという主人公の人生の話だったはずだ。
俺自身「この話ならビアンカと結婚してやれよー」などと思いながら観たわけだし、それなりに主人公の冒険を応援したわけだが。
ラストのあの瞬間までは。
結果的に、この話は主人公がプレイしているゲーム…、かつて熱中した「DQV」の体験型ゲームのストーリーだという。
それはまだいい、しかしその出し方が納得できない。
なぜ、映画のクライマックスで「これはゲームだ、現実を見ろ、大人になれよ」と冷や水をぶっかけてくるのか。
物語に没入し登場人物に感情移入して一喜一憂する、それが物語を楽しむ本質であるならば、それを観ている瞬間はその話は本物であるべきだ。
この映画は観客と物語の間にもう一つのレイヤーをぶち込んで、物語を虚構に堕としてしまった。
「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」と言って許されるのは「たけしの挑戦状」だけである。
山崎総監督が言いたいのは「ゲームを通して体験したその人生は、その本人にとっては本物だったんだ」とでもいう事だろうか。
それは良いだろうが、この構造ではそれは伝わらないし、それどころかそのシーン以降の描写が全て絵空事の様に見えてしまう。
ストーリーテラーがこんなことをしていいのか。
「これはフィクションに対する愚弄だ」と言っている人がいたが、まさにその通りだと思う。
もちろん劇中で自分が創作物の中にいる、もしくは創作物の一部だったと気づくようなストーリーの作品は他にも存在する。
が、それはそうだとしてもその創作物の世界が一つの本物として(様々な形態はあれど)生き続けるという前提があり、そこまでの積み重ねに意味を見出せるから成立する構造だと思う。
そもそもがダイジェストな上、「この話が終わればその世界は終了」と言われてどう心の整理を付けろというのか。
主人公はドラクエの主人公の人生を追体験したんだろう?
そこでの家族との人生が終わってしまうことが納得できるのか?やっぱりゲームだと割り切るのか?
これだけだとただの出来損ないの「ネバーエンディング・ストーリー」だ。
何だかとても…台無し。
とまあいろいろと思うところがあるわけだが、白組のVFXは相変わらずよく出来ていると思う。
そこだけは良い部分。
演出面ではアニメ的な(オーバーアクション)演出に寄っているのは気になる部分もあったし、人物(顔)のキャラデザを鳥山明のそれから変えたのかも理由がよく分からないが、まあ許容範囲ではある。
ただ、個人的にはスライムには表情を付けてほしくなかったな。
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