シネつう!
JAPAN STYLE !!

東京2020オリンピック
SIDE:A
2022年制作

満足度:

東京2020オリンピック競技大会の公式映画。
「SIDE:A」では"選手とその関係者"の視点から大会を見つめる。

オリンピック映画といえばリーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」、そして市川崑の「東京オリンピック」。
どうしても「芸術か記録か」論争を思い浮かべてしまう題材なわけだけど、河P直美監督がどの様にその題材を料理するのかは興味があったかな。
そういう意味ではやはりただの“記録”にはしていなかったし、大会に向き合う選手たちの想いの片鱗を感じさせられる作品にはなっていたと思う。

個人的に一番心を打ったのは、サーフィンの選手が海に向かって両手を広げているカットだろうか。
あのシーンは、彼が競技を通じて身を委ねているものへの祈りと感謝を感じさせる素晴らしい画だった。

本作の主題は「大会」ではあるものの、描いている主体は「大会」ではなく「選手」。
それは良いのだけど、ある意味で意図を感じる特定のチョイスあるのも事実。
確かに「母であり選手であることを選ぶこと」「選手ではなく母であることを選ぶこと」の対比、「難民選手達の想い」、「物言うアスリートの存在」というのは時代を映したものとしては正しいけれど、「東京大会であること」の描写としては必ずしも密接したものではない気もしたのだよね。
いや、それを描く必要がないと言っているわけではなくて、そこまでパーソナルな想いに踏み込むのであればもっと尺を割いて描いてほしい気がするし、それであればもう個人のドキュメンタリーのほうが良くない?と思ってしまったのです。
この作品で登場する選手たちの背景はパンフレットを読めばもう少しわかりやすく理解できるけど、パーソナルな話であるが故にむしろパンフに載っている情報を前提知識として持ってから観ないといけないのじゃないかとも感じるようなところでも、「映像作品」として完結しているのかは「芸術か記録か」で捉え方が変わりそうな気はするところ。

もちろん「東京大会」という面では自国大会にかける想いとしての柔道の話もあるし、沖縄の空手選手の話もある。
女子ソフトボールや女子バスケの部分にも「日本の大会であること」に意味を感じる部分もあったのだけど、そういうものと並行して出てくる「描きたい他のテーマ」への意識が強すぎた気もする。
終盤にカナダの女子バスケ選手と元日本代表の大ア選手を“二人の母”として空港で対面させたシーンは作品構成を意識して用意したシーンなんじゃないかと思うけど、そういう「意図」が見え見えなのはさすがに気になった。

新型コロナによる大会延期や取材の難しさに加え、すべてのものを取り上げられないほどの膨大な競技と映像素材から取捨選択する苦労は察するに余りあるとはいえ、50年後に何も知らない人がこの作品を観て「東京五輪にはこんな選手がいたのか」とは思ったとしても、「東京五輪はこんな大会だったのか」と感じるのかはこの「SIDE:A」だけを観るとイマイチ想像しにくいというのが正直なところ。
市川崑の「東京オリンピック」と比べるとなおさらに。


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